日本画院年表
創立趣旨
 今日、日本画壇を見るに私塾並びに少数同志試作展覧会は幾団体かを数えることができるが、全般の日本画人にとって公共の作品発表機関となし得るものは稀である。
 殊に東京画壇においてこの感を深くする。
 日本画院はこの不備を痛感しここに作品を公募して一派一党を超越した作品発表機関を提供し、新たなる時代を負うべき鋭意の作家を迎えて、共に研鑽しその発達奨励に寄与せんことを期するものである。
昭和十三年五月

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日本画院年表制作にあたって
鈴木久雄
.  戦前からあった日本画の公募団体というと数えるほどしかない。
 社団法人日展の「日展日本画」と、日本美術院の「院展」という二大組織を別格として考えれば、昭和13年4月に日本画院が結成されたときに既にあった日本画の美術団体は、日本南画院(大正10年創立)青龍社(昭和9年結成)それに昭和12年に創立の大日美術院と新興美術院だけである。その新興美術院は太平洋戦争末期に中断を余儀なくされて昭和26年に再興し、日本南画院は昭和35年に新たに創立されている。青龍社も、昭和41年に川端龍子が没するとともに解散してしまった。大日本美術院も暦程美術協会(昭和13年創立)も既にない。
 日本画院はそれほど長い歴史を有する美術団体であるが、これまでの歩みが判るものが書かれていなかったので、今回の60回展を機会に年表を作成することにした。創立当時の画家たちのすべてが故人となってしまったいまとなっては確認できないことが多いが、年表作成の途中で知り得たことを、戦前の歴史を中心に少しだけ述べておこうと思う。

 日本画院結成にかかわった同人のすべては、文展・帝展・新文展と続いた官展の審査員ならびに特選・無鑑査級の、いずれもが東京で活躍する中堅画家たちであった。
 結成の歳の日本美術5月号には、次のような記事が載っている。
 「同会の主眼とするところは、あらゆる流派会派を超越した政治的には全然無色な、いわば同人相互の親睦と鼓舞によって後進を指導し、かつ帰趨に迷っている日本画壇全般をリードして行こうとの念願に燃えているのであって、今回の正式結成の結果も大掴みな会則というようなものがあるだけであって瑣末にこだわらず大局的に行動しようというにある。来春第一回の展覧会開催と相俟って世人の期待するところや甚大である。
 賛助同人は、野田九浦、飛田周山、伊東深水、岩田正己、服部有恒、畠山錦成、西澤笛畝、川崎小虎、吉田秋光、吉村忠夫、吉岡堅二、高木保之助、常岡文龜、根上冨治、永田春水、矢澤弦月、山川秀峰、松本姿水、福田豊四郎、小泉勝爾、兒玉希望、穴山勝堂、廣島晃甫、望月春江、森白甫、杉山寧」

 しかしいざ動き出そうというときになると、最初の掛け声のようなわけにはいかず、皆それぞれの思惑、お家の事情が違ったようで、足並みが乱れてしまった。結局翌昭和14年に第1回展が開かれたときの同人は、野田九浦、飛田周山、岩田正己、服部有恒、畠山錦成、西澤笛畝、川崎小虎、吉田秋光、吉岡堅二、高木保之助、常岡文龜、根上冨治、永田春水、矢澤弦月、松本姿水、福田豊四郎、小泉勝爾、穴山勝堂、望月春江、森白甫で、年表の冒頭に掲載した顔ぶれになったのである。
 (但しこの中で同人に名を連ねたが結局不出品のまゝで終わった人がいる。読画会系の西澤笛畝、永田春水、森白甫で、その他の若手では新日本画を志す新美術人協会の中心となっていた吉岡堅二、福田豊四郎と、結城素明、川崎小虎、青木大乗の三人が創立し開催した大日美術院展に作品を発表する常岡文龜がいた)
 日本画院は順風に帆をあげるとはいえない状況の中で、それでも当初の意欲を失わずに踏み止まった人たちの力によって滑り出したのであった。

 創立者たちを画風から見ると二つに大別されると思う。川崎小虎、矢澤弦月、松本姿水、望月春江、根上冨治らの、日本画の伝統的技巧を生かしつつも、洋画的手法・表現を強く意識する新感覚の画家たちと、古典の素養に立脚して歴史画や風景画、風俗画に伝統的な大和絵の再興を志す服部有恒、岩田正己、吉村忠夫、吉田秋光、高木保之助、穴山勝堂、といった画家たちとである。
 これをお互いの人間関係から考えてみると、前者は結城素明と近く、後者は松岡映丘のもとに集まった人たちであった。
 結城素明が、東京美術学校で日本画、洋画を学び、その後40年にわたって母校の教授をつとめた人。結城素明の教えを受けた人は多く、門下生に望月春江、根上冨治、常岡文龜、加藤栄三、東山魁夷らがいる。また川崎小虎はのちに東京美術学校の教授になるが、講師をしていたときに結城素明、青木大乗に勧められて大日美術院の創立に参加している。
 そして、この二つの人脈に共通する存在であったのが長老格で人格者の野田九浦であった。大和絵画風を現代に生かし考証的歴史画を得意とする野田九浦は、大正5年に松岡映丘、結城素明と金蘭社を結成している。

 ところで日本画院誕生の直接のきっかけは何であったのだろうか。
 私は昭和13年、日本画院結成の直前に起きた松岡映丘の死(3月2日)と、日本画会の解散(2月1日)であったと思う。
 大和絵の伝統を近代によみがえらせようと努力した松岡映丘は、昭和10年に東京美術学校教授を辞任し、帝展改組にあたり国画院を結成。第1回展(昭和12年)に病躯をおして心血を注いだ力作「矢面」(六曲屏風一双)を発表、その翌年死去した。この国画院展には前述の松岡映丘門下にあたる人たちも出品していた。師を失った門下生の多くが、日本画院結成に加わったのではないか。(国画院は昭和18年に解散している)
 そして日本画会の解散がその一ヶ月前に起きた。
 これについては多少の解釈が必要である。
 日本画会の歴史は古く明治31年に創立されているが、ここで述べる日本画会は、その結成者のひとりであった荒木十畝が、沈滞したこれまでの頽勢を挽回しようと大正12年に大刷新をはかった、いわゆる「革新日本画会」のことを指す。革新日本画会は同年3月に、中橋徳五郎を会頭、南弘を副会頭に戴き、帝展会員級の人を顧問に、審査員級の人々を客員に、新進有力の作家を幹事に迎えて発会式をおこない、東京画壇各派の総合展として装いを新たにスタートした。日本画会展は、以後毎年公募の形で開かれて、昭和初期の美術展に彩を添えたのである。
 しかし結果としては主催者の期待を上回る成果を挙げることは難しかったようで、昭和13年になったとき、実際の事務に携わっている甫喜山義夫理事より「大体使命も達したようであるし、この辺で一先づ解散するのも時宜を得たものではなかろうか」との発案があって解散してしまった。(美之国第14巻第2号)
 この日本画会には、日本画院の結成に賛同した画家たちの多くが参加し、しばしば出品をおこなっていた。とすると日本画会の突然の解散が引き金となって、日本画院結成の話が一気に促進されたことは十分にあり得る。
 但し日本画会がそのまゝ日本画院に変わったのではない。
 「近代日本画団体変遷表」という図表を見ると、各団体の前後の流れがわかるようになっていて、日本画院の場合は日本画会―革新日本画会―日本画院となっている。註、「近代日本美術事典」(一九八九年講談社刊)の末尾にも同様の図表が掲載されている。
 こうしたことから日本画院の前身は日本画会であるという見方が生まれてくるようだ。日本画会解散直前の顧問は荒木十畝と結城素明で、同人は野田九浦、川崎小虎、矢澤弦月、吉田秋光、伊東深水、吉村忠夫、永田春水、西澤笛畝、松本姿水、望月春江、飛田周山、池上秀畝、水上泰生、森村宣稲であった。
 その多くが日本画院結成のときの顔ぶれと重なっているので、革新日本画会―日本画院という認識になったと思う。だがそれは正確ではない。これらの人びとは会の中心人物である荒木十畝に懇請されて出品すようになり審査員をつとめていたのであって、自分たちにとって日本画会がすべてではなかった。それぞれが官展をはじめとする自らの舞台のある人たちで、あまりこの会に熱意を抱いていたとは思えないのである。

 ただ日本画会解散を機会に、自分たちで何かをやらなくてはという気運がどこかで生まれたのではないだろうか。

 この頃は日中全面戦争が拡大の一途をたどり、国家総動員法が公布され、戦時色が一段と濃くなっていったときであったが、まだ平常通りの活動が許されていて作家の自由な制作についての束縛はなく、非常時局がかえって精神的な鼓舞を与える結果になっていた。表面的には美術隆昌であったわけで、そのような時に大同団結してという呼び掛けが有志の間で起きたとしても不思議ではない。
 ともあれ日本画院は第一回展を開催したのである。
 日本画院の趣旨に「一派一党を超越した試作発表機関を提供し」のことばがある。そのことば通りやがて日本画院展は回を重ねるごとに、美術学校の卒業生や画塾で研鑽を重ねている若い作家の発表の場として注目されるようになっていった。
 「完全を望むといいたいことはいくらでもあるが、日本画院展は今年になって開かれた日本画展に於ては矢張り第一に挙げるべきものである。傑作が多いということではなく、若い作家がそれぞれ手足を存分に伸ばしているということに於てだ」(日本画院第5回展評・大山広光、国画・昭和18年6月号)
 私は戦中から戦後にかけての年表の中段に、日本画院展の主な出品者入選者を作品の題名とともに掲載することにしたが、そのなかには現在画壇で活躍している大家・有名画家の名前もあった。きっと若さに溢れる意欲作を発表して、さらなる飛躍を目指したのだろう。
 東山魁夷も日本画院展に出品していたことがあった。第1回展、第2回展、第3回展と最初から立て続けに日本画院賞を受賞していて、この時から一際目立つ才能の持ち主であったことがわかる。
 戦後東山魁夷は日展で華々しく活躍し、やがて現代日本画壇における最も著名な画家になるが、昭和15年に川崎小虎に長女すみ(東山すみ夫人)と結婚し、川崎小虎が岳父であったこともあってか、昭和27年までんは日本画院展に招待作家として作品を発表していた。

 昭和30年代に入る頃には、創立同人の多くがなくなり、残った野田九浦、川崎小虎、松本姿水、岩田正己、望月春江、穴山勝堂、根上冨治らに中堅若手が加わる形で、日本画院の陣容が形成されていった。日本経済の高度成長と重なるようにして、昭和31年には7名の、昭和32年には一気に19名の同人が誕生するなどして組織の充実がはかられた。

 だがこの頃になると受賞を重ねた有力作家のなかから、日本画院での活動から離れて秋の日展に精力を傾ける人が増えてくる。そのことで日本画院自体が大波に揺れ動くことはなかったようであるが、損失であったことは否めない。
 離れる人があれば加わる人もいて、その結果日本画院の陣容は昭和30年代後半から40年代前半にかけて大きく変わることになった。この間の推移を確認する意味合いもあって、昭和45年度の年表には全会員の名前を記載した。

 戦前戦後を生き抜いて、昭和40年代になってからも毎年日本画院展に作品を発表し続けた創立同人は望月春江と松本姿水の二人だけであった。(その松本姿水も昭和47年に85歳で世を去る)日本画院は望月春江を中心にしてまとまっていくなかで、次第にこの会の性格が形作られていったようである。
 第34回展のとき美術評論家の田近憲三は、「日本画院展は、中心の望月春江の清麗を反映して会場の制作が誠実で温和である。日本画のキメの細かさは大切に守られて末端までが丁重に描くのは快い」と評している。(日本経済新聞・昭和49年5月17日)

 昭和52年1月29日、創立同人の川崎小虎が90歳で没する。この年に開かれた第37回日本画院展の図録の頁を開くと、望月春江が追悼文を書いていて、そのなかで「先生の美しい愛情は作品の至る所にしみじみとうかがわれて、観る者の心をうつものがある。ふるさとの夢などひとつとっても、先生の人となりと暖かい心情とは皆忘れることができないところである。古典にこもる品位と優美さに対し、一面新しい日本画の創作活動は特筆すべき有意義な活動であった」と述べている。
 このことばは望月春江自身が大切にしていたことばでもあったろう。品位と優美を失わずに新しい日本画を創造する。そのためには自由な気風を尊重しなくてはならない。
 第37回展の図録には雅致と張りのある望月春江の「春の詩」が載っているが、この他に新しい日本画の創造を目指す塩原友子の「夢幻」「蓮池」や猪俣琴子の抽象的な「池」、清澄な高松登の「月明」と鈴木美江の「夕べの花」などがあって各人が自由に制作しているのがわかる。

 それから二年後に望月春江も世を去った。
 その後の日本画院は同人たちの合議制という形で今日に至っている。
 この年表は第60回展を迎えた所で終わっているが、近年美術界を取り巻く環境は大きく変わりつつある。時代の変遷のなかでひとつの美術団体が毎年惰性に陥ることなく継続していくということは並大抵のことではない。
 ただ何時の時代にあっても、新しい創造への意欲と優れた感性、確かな技術が求められるのだから、そのことを大切にする限り、日本画院はこれからも歩み続けるだろう。
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鈴木久雄(すずき・ひさお)
. 東京大学文学部美術史学科卒業。著書に『ブルーノ・タウトへの旅』(新樹社)、『複眼のヨーロッパ美術紀行』(新樹社)がある。 .
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